父の死を通してわかったこと
人が生まれてくることも死ぬことも、そのこと自体に意味などない
だけど、生きている間にどう行動するかで意味づけることができる
意味なんて、そんなの後付けだから
生まれてくることも死ぬことも、自分で選べないことがほとんどだけど、どう生きるかだけは選べるから
後悔のないように
かなり痛々しい自覚はある
このブログを始めていくつか記事を書いたけれど、そのどれもが痛々しい自覚はある。
不幸に酔っているような、自分を特別だと思っているような痛々しさ。
痛々しくない生き方をしたいけれど、今までずっとこんな感じで生きてきたからいまさらどうすればいいのかわからない。
なんていう言い訳もやっぱり痛々しい。
父が死んだ
父が死んだ
倒れてから何か月も経って、やっとその日が来た。
正直ほっとした。
最低限の栄養だけ与えられ、痰の吸引も十分に行ってもらえず、生き地獄のような環境だったから、見殺しにしているような罪悪感がずっとあったから。
あんなにふくよかだったのに、最期は骨と皮だけしか残らず、黄疸のせいで肌や目も黄色かった。
これはいったい誰なんだろうと思った。
葬式では泣くかなと思っていたけれど泣かなかった。
死んでから葬式までにいろいろありすぎて泣けなかった。
一般的な、人が死んでから葬儀が行われるまでの様子を知らないからよくわからないけど、個人的な感想だけでいえば本当にいろいろあった。
自分のことしか考えていなくて、自分の思い通りにしないと気が済まない親戚。
父のスマホから会社や友人に葬儀の案内のメールを送っていた時に偶然見つけてしまった、片思いのようなメモ。妻と子供がいるけど愛はないみたいなことも書いてあった。
改めて母から聞かされた父の愚痴、そしてそれを話した人からはどうして離婚しなかったんだといわれること。
わたし、なんで生まれてきたんだろう。
確実にいない方がよかったよね。
父は自分の村のことがたぶん一番大切だった。家族よりも。
それなら村の人と結婚してずっと村で暮らしていればよかった。
母だって、結婚してすぐにおかしいと思ったなら離婚すればよかった。
結婚してからわたしが生まれるまでかなりの年数があったんだから、タイミングはいくらでもあったはずだ。
それとも、やっぱりわたしが生まれてすべてが狂ったのかな。
絶妙なバランスで何とか形を保っていたけれど、わたしが生まれたから全て崩れたのかな。
父方の親戚と改めて会って、この人たちはなんでこうも人の気持ちを考えられないのかなと思った。
それと同時に、わたしにもその血が脈々と流れているんだなと思ってぞっとした。
そして気づいちゃいました。自分のことしか考えられないのも、家庭を壊すのも、親戚たちとわたしはそっくりだ。
何の変哲もない家庭だと思っていたけれど、ちがった。
家族全員で、いろんな方法で家庭を壊していた。
まるで自分は被害者のように書いてきたけれど、わたしも加害者だ。
父は無関心であったり、詳細はわからないけれどあの片思いメモのようなやつであったりで壊した。
母は父の悪口をわたしに吹き込み、父を憎むことで壊した。
わたしも母に習うことで壊した。
離婚はしていなかったけど、中身はぼろぼろでスカスカの家庭だった。
すべてが間違いだった。
わたしも最近知ったのだけれど、父方の親戚はいわゆる訳ありな過程が多い。
詳しくは知らないけれど、わたしの偏見でしかないけれど、ストンと納得した。
たぶん、この家系は家庭というものを円満に運営するのに向いていないのだと思う。
そしてわたしも。
昔から結婚というものにとても憧れていた。
うちが仲良くないことはなんとなく気づいていたから、しあわせな家庭に憧れた。自分もそんな家庭を築きたいと夢見ていた。
でも、きっとだめなんだろうなあ。
相手がどんなにすばらしかったとしても、わたしはどんな家庭も所属したらさいご壊してしまう気がする。
葬式で泣けなかったと前述したけれど、あれは半分嘘で半分事実だ。
父を思って泣けなかったのは本当だけど、生まれたことが間違いだという自分の身の上を憐れんで泣いたのだ。
ここでもはっきりクズの血が現れている。
自分のことしか考えられない。最低。
父は死んだ。
わたしの人生はたぶんこれからも続く。
わたしはどうやって生きていくんだろう。
どうやって生きていけばいいのだろう。
しあわせだと思っていたけど、父がいなくなってからよくわからなくなってしまった話
昔から、自分はわりと幸せなのだと思っていた。
人づきあいがあまり得意ではなかったけど、別にそれを気にしたことはなかったし、本を読むことの方がずっと楽しかった。
両親は正直仲が悪くて、母はわたしがいるから離婚できずに苦しんでいるのだと泣いたことも一度あったけれど、毎日口論しているわけではないし、まあどこの家庭もこんなものだろうと思ってた。
母が病気になってしばらく入院や手術や治療が続いたこともあったけれど、いまは元気に暮らしている。
食べるものに困ったことはないし、好きなところに進学もできた。
わたしが幸せなのは、事実だ。
しかし2020年になって間もないころ、父が倒れた。
もう話すことはできない。意識が戻ることはない。
父が倒れて間もないころ、母から聞かせられた言葉が頭から離れない。
叔母が言っていたそうだ
いつ離婚するのかと思っていたと。
父から放置されていて私と母がかわいそうだとずっと思っていたと。
それから母も言っていた。
父は私よりはやくに生まれたいとこばかりかわいがって、私のことはあまりかわいがらなかったと。
母が病気の治療でつらいときに、最期の思い出作りみたいにあちこち連れまわされ、治ったとたんぱったりだと。
私の学校行事に一切来ず、周りは家族で来ているのに母はいつも一人で孤独だったと。
結婚を早まりすぎた、もっといいひとと結婚できた。でもそれだと私に会えなかったから、それはつらいと。
あまりにも衝撃的だった。
仲良し家族、というわけではなくても、よくある家庭の範疇だと思っていた。
わたし、そんなにかわいそうですか?愛されてなかったのですか?
そして、やっぱりわたしが母を不幸に縛り付けていたのですか?
わたしは幼いころずいぶんと育てにくい子だったという。
神経質で、すぐ泣き叫んで、好き嫌いも激しくて、人見知りもすごくて、手に付けられなかったという。
父はあまり子育てに関わらなかったと聞いた。母はほぼ一人でわたしの面倒を見ていた。
大変だったとはよく聞くけど、かわいかったから頑張れたといっていた。
わたしは母に愛されて育ったと自信をもっていえる。
でも、わたしがいるから母は不幸にもなったのではないだろうか
父と結婚したからわたしに会えたというのは結果論でしかない。
たらればの話にしかならないけれど、”もっといいひと”と結婚して”もっといい子”が生まれていた可能性はじゅうぶんにある。
そう考えると、わたしってなんなんだろうとよくおもう。
わたしはずっと家族がいて、経済的な不安も感じず、自由に好きなことをして、希望通りに進学して、たしかにしあわせだったとおもう。
それは間違いのない事実なのだとおもう。
それなのに、なんでこんなにつらいんだろう。
なんでこんなに消えたいんだろう。
今年の上半期、ずっとそれを考えている。
生まれてきて、ごめんなさい。
今週のお題「2020年上半期」
呪われてるはなし
小学生の頃、親戚がわたしに大きくなったね、と声をかけたとき父はここが?こっちが?としつこくわたしのお腹を指したこと
給食が苦手で全然食べられないときに、〇〇のおにくはお菓子でできてるのか?と担任にからかわれたこと
パパは結婚してからぶくぶく太って、と母から聞かされ続けたこと
二重にしてから周りがうんと優しくなったこと
些細なことだけど、積もり積もって心の奥底にべったりと染みついている呪い
たぶん誰もが呪われながら生きているんだろうけど、その呪いに支配される人とされない人のちがいは何なのでしょうね
人間のふりをしている
人間のふりをしている気がする。
常にそんなことを考えているわけではないけれど、ふとした瞬間に頭をよぎる。
友達と買い物に行ったときだったり、部活でいろいろ話をしているときだったり、他の人と話をしているときにふとよぎる。
わたしは他人に自分を否定されることがとてもこわい。
否定されると、とことん自分はだめなやつで、生きている価値もない、むしろ害悪だとすら思ってしまう。
これは陰口を言われたときだけじゃなくて、実技試験で手順を間違えてしまったときなど、失敗を指摘されたときにも感じる。
”自分自身”ではなく”行為”を間違いと指摘されているのは頭ではわかっているつもりなのだけど、心ではどうしてもそう思えない。
だから、自分が他人を否定するのも極力避けるようにしている。
気持ちや言葉は送った分ある程度は返ってくることが多いと学んだからだ。
否定を投げかけなければ、否定を投げられることもぐっと少なくなる。
好意を送れば、好意が返ってくる。
そしてもうひとつ、わたしは好きなものが少ない。
食べ物であったり服のデザインであったり、全てに対してである。
だいたいのものに対して何も感じないか、否定的な感情を抱くかのどちらかだ。
でも、好意を送らないと自分が否定されるかもしれない。
だから、わたしは心にもない好意的な言葉をよく吐く。
ここ数年、わたしは思っていなくても反射的に好意的な言葉を言えるようになった。
そのとき頭は、完全に思考を停止している。
今までより他人がずいぶん優しくなった気がするし、生きやすくなったと思う。
でも、思ってもいない言葉を吐いて、否定されないよう予防線を張って、他人からの評価に縋り付いて、なんてみじめなやつなんだろう。
人間のふりばかり上手になって、あとは自分に何が残っているんだろう。
誰にもいえない父の話
今週のお題「お父さん」
今日は父の日ということで、父が倒れてからずっと思っている誰にもいえない話を書いてみようと思います。
わたしと父はここ数年、非常に関係が悪かったです。全く口をきいていなかったし、目も合いませんでした。
決定打となった原因は、わたしが高校3年生のときの言い争いです。
高校3年生の頃、わたしは学校での人間関係がうまくいかないことや受験勉強などが重なり、生来の学校嫌いが加速して学校に行ったり行かなかったりを繰り返していました。
ある日いつものように母に「明日学校に行きたくない、休みたい」とごねていると、珍しく父が口を出してきました。具体的になにを言われたのかは覚えていないのですが、学校に行きたくないというわたしを非難するような言葉だったと思います。
それに対して、わたしはものすごく腹が立って怒鳴り散らしました。
たぶん、母に同じことを言われていたらここまで腹は立っていないんですよ。
なんでそんなに腹を立てたかというと、父はわたしに無関心だと常日頃から思っていたからなんですね。
昔から父はわたしの学校行事にはほとんど来ようとしたことがなく、成績にも部活にも進学にも関心がなかったです。実際どう思っていたかはわかりませんが、少なくともわたしはそう感じていました。
たぶん父はその時たまたま機嫌が悪かったから叱るような言葉を発しただけで、わたしのために叱ったわけではないんですよ。だから、ものすごく腹が立ったんです。
その日を境に、わたしと父の関係は上記の通りとても悪化し、改善することもないまま父は倒れました。意識の回復は見込めません。
前置きが長かったですが、ここからが誰にもいえない話です。
ふつう、ずっと口をきいていなくて、そんな最中に父が倒れたら口をきいていなかったことを後悔するんじゃないかなって思うんです。
なんであんな意地を張っていたんだろう、他にやり方はあったんじゃないかって。
まあ多少そんな気持ちもないことはないのですが、正直わたしは父と関係が良くなかったのはしかたがなかったんじゃないかなって思ってます。
高校3年生の出来事の前から、父と根本的に考えが合わないなと感じることは何度もありました。
社交的で保守的な父と、人とうまく関われなくて学校という狭いコミュニティが息苦しくてしかたがなかったわたし。
どうがんばってもうまくやっていくことはできなかったんじゃないかなって思うんです。
肉親に対して冷たい人間だなと自分で思います。
ほかにもいえない話はたくさんあります。
わたしは父の病室で父に声をかけることができません。
特に母や看護師さん、同室の他の患者さんがいる前ではできません。
声をかけているところを見られたくないんです。恥ずかしいんです、聞かれるのが。あと、憐れまれたくないというのも大きいです。
考えてみてください。二十歳そこそこの女が意識がなく瞳孔が開いた父に「お父さん、〇〇だよ。お見舞いにきたよ」って声をかけているの、とてもかわいそうにみえませんか?
あと、葬式でぜったい泣きたくないとおもっています。これも憐れまれたくないという思いからです。母もそうですが、親戚たちにかわいそうな子と思われるのがとてもいやなのです。
本当に、わたしは自分本位な人間なのだと思います。
看護師さんによく「人間は最後まで耳は聞こえるから、いっぱい話しかけてあげてください」と言われました。それなのにわたしは憐れまれたくないという自分の感情ばかり大切で、父のことは二の次なのです。最低だと思います。
ここからさらに最低な話をします。
また、父は倒れる前は仕事で独立したばかりでした。詳細は伏せますが父は人と接する必要がある仕事に就いていました。
どのくらいかはわかりませんが、確実に新型コロナウイルス感染症の影響を受けていたと思います。
「もしかしたら、父の仕事はものすごく影響を受けていたのかもしれない。そしてうちは生活に困っていたのかもしれない。そんなになるくらいだったら、父は倒れたほうがよかったのではないか」
一瞬、こんな考えが頭をよぎりました。
生きているに勝ることはないと思います。わかってます。それでも、こんなことを考えてしまったのです。
自分の利己的さ、冷酷さ、狡猾さにぞっとしました。
こんなこと、誰にもいえない。
こんな子供でごめんなさい。